白と黒の記憶⑩

  • JAMさん
  • 2015/9/01 16:38:32

鉱山の町である。雨季には、木々の生えない真っ赤な山から容赦なく出水、濁流が店の前の側溝にあふれてきた。道路よりやや低地にあった我が家は床下浸水が年中行事だった。

台風ともなると、住まいの裏の国鉄線路に沿って流れる川が氾濫した。この2級河川は、鉱山から掘り出された石灰の行先と同じ工業都市まで流れ、河口を広げている。

川の氾濫は2度遭遇したように記憶している。すぐ前の鉱山からの鉄砲水との挟み撃ちだった。父は戸板などの廃材を店の入り口や窓に打ち付け、浸水に備えていた。はさみ、シャンプー、バリカン、剃刀など理髪道具はどこに避難させていたのか、なぜか避難作業に駆け回る母の姿の記憶はない。

私たち子供は隣の大家の2階に避難した。兄妹2人、布団の中で濁流の音、大風の轟音に耳を奪われたまま、いつの間にか眠りに落ちたようだ。父母はどこであらしの夜を過ごしたのか、そばにはいなかった。徹夜で警戒していたのだろうか。

台風一過、大家の子らと一緒に2階から、まだ退ききらない洪水を眺めていた。おじさんたちが泥水の中を腰まで浸かり行き来していた。廃材や家具が流れていた。大きな鯉が跳ねることもあり、歓声を上げた。

大人たちの苦労をよそに、私は持ち込んだ幻燈機を大家の子供たちに自慢げに映して見せたこともあった。天井の電球を降ろして幻燈機に差し込みフィルムを装填、ハンドルを回すと壁に堀部安兵衛の高田馬場の場面が映し出された。もちろんブリキのおもちゃで、わずか1分ぐらいの映写だったが、何度か繰り返すうちにブリキはさわれないほど熱くなった。

小学2年か3年だった。幻燈機は父が買ってくれた贅沢なおもちゃだったが、ほかのおもちゃ同様、いつの間にかなくなっていた。

年に一度、親子で一日旅行を楽しむ余裕ができていた。有名デパートがいくつもある屈指の観光地に父が連れて行ってくれた。レストランで食事をし、遊覧船に乗せてくれた。ここでもなぜか母と一緒の思い出がない、母は仕事でいけなかったのか。

父は30代半ばの働き盛り。理髪業の母に負けず劣らず、一家の大黒柱になっていた。そして酒造家のすぐ近くに30坪余りの土地を手に入れ、念願の我が家を新築したのだ。

新居は6部屋と菜園のある赤瓦の家。苦労惜しまず働いた父の成果である。いつも生き生きと働いていた笑顔が懐かしく思い出される。酒造家から、事務所部分を解いた柱や重々しい擦りガラスのドアなどを、建材として提供を受けている。酒造家への報恩と義父の家系を担う決意のこもった父の「城」だった。

 

 

 

 

 


  • コメント (0)
  • トラックバック (0)
トラックバックURL :
http://n-log.jp/tb.cgi/271506