白と黒の記憶⑪

  • JAMさん
  • 2015/9/04 11:52:12

父と母は「取り子・取り嫁」である。二年の兵役から無事復員した二十歳の若者と、理髪師の修業を終えたまだ17歳の娘だった。二人は、それぞれの縁を通じて、祖父のもとに養子として入った。

祖父は地元の確かな家系に連なる一家の六男だった。造り酒屋から30メートルほど下った道野辺の小さな家に一人住んでいた。道を挟んで向かいは小学校。その先には線路が走り、川が流れ、氏神の社が立つ小山があった。本家はその裏に、墓所とともに屋敷を構えていた。

就学前まで私たち親子は祖父と同居していた。祖父から背負われた記憶もある。両親はこの家からそれぞれの職場に通った。父はわずか4件先と近かったが、母は店まで片道40分の道のりだった。私たち兄妹も近くに立つ菩提寺の保育園に通っていた。

小さな家の間取りは小座敷、納戸、いろりのある居間そして台所だった。田舎間のこと、両親には余計に狭く感じられただろう。

私の右手の甲の皮膚には引きつりがある。まだ這っていたころ、囲炉裏に掛かる鍋に手をやり、味噌汁だったか熱湯をかぶった痕と聞いている。泣き喚いた記憶があるようだが、後付けの物語のようでもある。

父は、祖父の家での同居に限界を感じたに違いない。家族が増え手狭になり、母の通勤の苦労が増した。母と相談し、家族の移転を祖父に持ち掛けたのではないか。店の大家にも、裏を住まいに改造できないか相談しただろう。そして鉱山の町に移転となった。私の就学は新しい家で始まった。

しばらくの間、遠くになった通園の送り迎えを祖父と父がしてくれた。父の背中で「別れの一本杉」を聞きながら眠りに落ちた日はもう随分遠くになった。

父にとって鉱山町への移転はいっときの避難だったはずだ。いずれは、家系を継いだ祖父の住む土地に帰る、酒造家のある土地、父自身の生まれた実家のある故郷に帰るーー。そんな希望を秘めての一時撤退だったに違いない。

雌伏5年。その意味で故地への新居実現、復帰は錦を飾るに等しい晴れやかな出来事だったろう。

とともに、取り子・取り嫁の父には、祖父の家系を継いだ責任があった。本家に恥じないだけの信用を新たに築くこと、恩ある酒造家に報いること。父は生きることの意味を見出し、決意を新たにしたことだろう。新居はそのための拠点だった。もちろん私たち子供により良い生育環境を与えること、家族の幸せを願ってのことでもあった。

造り酒屋では、父は杜氏の仕事以外はすべてに働いた。瓶を洗い、酒を詰め、ラベルを張って箱詰め、注文を受けて運送、そして樽洗い。トラックの助手席に乗り、県下一円を走った運送経験から、土地勘や道路網にも精通した。裏の栗山の世話にも精を出すなど奉公人として力を尽くし、酒造家の信頼を得た。地方政界の一人だった当主の選挙運動にも裏方として力を惜しまなかった。

年末の取引先や当主の支持者宛ての賀状書きも父の仕事だった。自宅に持ち帰り数百枚も書いた。国民学校もまともに通えなかった父だったが、その筆様は美しく、静かに落ち着いた墨跡だった。後年、私は父に、筆文字をうまく書くこつを尋ねたことがある。父は、筆順を決めたらためらわず一気に書け、と指南した。やってみたが未だもって様にならない。

鉱山町で母に甘えていた私は一転、新居に移り、父の姿を追いかける子になった。小学4年生、10歳だった。

 

 

 

 

 

 


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